【#3】「なぜ?」の追究から見えてきたカンボジアの過去。そして、変わっていく見え方
前回は、カンボジアの人たちに話を聞くなかで、「なぜ?」があふれてくる楽しさについてお伝えしました。
今回は、少し重たいお話になります。カンボジアが歩んできた歴史、それも、ほんの数十年前の出来事についてです。
なんとなく知っていた。でも、ちゃんとは知らなかった
カンボジアの歴史について、まったく知らなかったわけではありません。学生時代に、なんとなく習った記憶があります。行きの機内でも、本を開いて予習をしました。
内戦、クメール・ルージュ、ポル・ポト。言葉としては、知っていたのです。
けれど、それらはどれも断片的な知識でした。何が起きたのか。そして、それがこの国にとって、どのような意味を持つのか。そこまで理解していたとは、とても言えませんでした。
そんな状態で街を歩き、人と話していると、ふとした瞬間に、その時代の話に行き当たります。前回お伝えした、夜間大学で学び直す大人たちもそうでした。内戦の時代に、教育を受ける機会を失った人たち、という話でした。
そうして話を聞いていくなかで、この国を知るには、今だけではなく、その背景にある歴史をかならず知らなければならない、と感じるようになりました。
そんな思いを抱えて訪れたのが、今回の出張行程に入っていた2つの場所、トゥールスレン虐殺博物館と、キリングフィールドです。ただ見学するのではなく、この国で何が起きたのかを、きちんと知るつもりで向かいました。
ここで少しだけ、カンボジアの背景をお伝えしておきます。1975年から1979年までのおよそ4年間、カンボジアは、ポル・ポト率いるクメール・ルージュに支配されていました。都市の住民は農村へ強制的に移住させられ、知識人をはじめ、多くの人々が命を落としました。その犠牲者数は、100万人を超えるとも言われています。
トゥールスレン虐殺博物館を訪ねて
トゥールスレン虐殺博物館は、首都プノンペンの中心部にあります。ポル・ポト政権の時代、「S21」と呼ばれた政治犯の収容所で、当時の建物がほぼそのまま残されています。2025年には、キリングフィールドとともに、世界遺産にも登録されました。
私たちがここに着いたのは、夕方でした。
最初に目に入ったのは、意外にも、建物の美しさです。黄色と白のタイルが交互に敷かれた床。3階建ての、風通しのいい校舎。日本にあったら、おしゃれな学校だと言われそうな建物でした。
しかし、この場所がたどってきた歴史は、その外観からは想像もできないものでした。
ここは、もともと高校でした。それが、クメール・ルージュの時代に、収容所として使われるようになったのです。
日本語の音声ガイドを聞きながら、展示を見てまわりました。生徒たちが過ごしていたはずの教室には、鉄のベッドがひとつ。そこは、拷問が行われた部屋でした。
館内に空調はありません。西日が差し込み、とにかく暑い。お昼から何も食べていなかったこともあり、汗が止まらず、喉も渇いていました。そんな身体的なつらさを感じながら見る展示は、正直、かなりこたえるものでした。
なかでも忘れられないのが、壁一面に並んだ写真です。ここに収容された人たちは、一人ひとり、番号札をつけて写真を撮られていました。証明写真のように、全員がまっすぐこちらを見ている。その視線に、足が止まりました。
音声ガイドを聞くなかで、印象に残ったことがあります。写真に残されているなかには、収容所を運営する側の人たちもいたことです。その多くは、十分な教育を受ける機会がないまま、農村から連れてこられた若い人たちだったといいます。そして、彼ら自身も、やがて被害を受ける側になっていったのだそうです。
一人ひとりの人生や、その背景に目を向けたとき、単純な言葉だけでは語れない複雑さがあることを感じました。
外に出ると、すぐ隣には、ふつうの住宅街が広がっていました。アイスの屋台の女の子が、にこにこと声をかけてくれます。入る前と何も変わらないはずの街角が、どこか違って見えました。その日は、何かを食べる気になれず、近くのカフェでしばらく休憩をしました。

キリングフィールドを訪ねて
翌日、今度はキリングフィールドを訪れました。
キリングフィールドとは、ポル・ポト政権の時代に処刑が行われた場所のことで、カンボジア各地に残されています。今回訪れたのは、プノンペン郊外にあるチュンエク。トゥールスレンに収容された人たちの多くが、ここへ連れてこられ、命を奪われました。
トゥールスレンとは、まるで正反対の場所でした。トゥールスレンが、閉ざされた部屋から部屋へと、当時の記録をたどっていく場所だったのに対して、ここは広く、ひらけていて、静かです。観光客も多く、穏やかな空気が流れていました。
けれど、その穏やかさの中に、この場所で起きたことの重さが残っていました。
ここには、トゥールスレンのような建物も、当時を伝える大量の写真もほとんどありません。トゥールスレンが、写真や資料によって当時を伝える「記録」の場所だとすれば、キリングフィールドは、起きたことの「痕跡」が残る場所です。
木の柵で囲まれた、集団墓地の跡の窪み。そして、犠牲になった人々の遺骨を納めた慰霊塔。遺骨は、推定される年齢ごとに分けて納められていて、そこには子どもから高齢者まで、さまざまな世代の人たちがいました。
歩いていると、こんなアナウンスが流れてきました。「もし地面に骨や衣服が落ちているのを見つけても、決して拾ったり、踏んだり、持ち帰ったりしないで、スタッフに知らせてください」。敷地内や池の底には、今も回収しきれていない遺骨が残っているのだそうです。
何十年も前の出来事が、いまも足もとにつながっている。そう思った瞬間、それまで穏やかに見えていた風景が、少し違って見えてきました。
目に見えるものが少ないぶん、そこで何があったのかは、音声ガイドの言葉を頼りに、自分の中で思い描くしかありません。
そのなかで、ひとつ忘れられない説明がありました。当時、この場所では、犠牲になる人たちの叫び声をかき消すために、スピーカーから大音量で革命歌が流されていたといいます。音声ガイドでは、その革命歌と発電機のエンジン音が再現されていました。犠牲になった人たちが、最後に耳にしたかもしれない音です。
静かな風景のなかで、その音だけが、ずっと耳に残りました。

今につながる過去
2つの場所を訪れて、あらためて感じたことがあります。それは、この出来事が、「歴史」と呼ぶにはまだ近すぎる過去だということです。
わずか50年ほど前のこと。第1話でふれたように、その責任を問う裁判は、つい最近まで続いていました。キリングフィールドの地面には、いまも遺骨が残っています。そして、当時を生き延びた人たちや、その子どもの世代が、いま、この国で暮らしています。
しかもそれは、社会を支えるはずの人たちが、一度に奪われるほど過酷な出来事でした。教育を受けた人たちが標的にされ、学校や病院は、本来の役割を失いました。その事実を知ると、第2話でお伝えした、夜間大学で学び直す大人たちの姿も、また違った意味を持って見えてきます。
そして、このあと出会うことになる、十分な治療を受けられずに障がいが残った人たちや、学校に通うことが難しい子どもたち。いまカンボジアが抱えているさまざまな課題も、こうした過去と無関係ではないのだと思います。
そう考えたとき、これから見るものや出会う人たちを、ただ「今起きていること」として見るのではなく、その背景まで含めて知っていきたいと思うようになりました。
背景を知ると、見え方が変わる
もちろん、2つの施設を訪れただけで、この国のすべてを理解できたわけではありません。それでも、背景を知る前と後では、同じ景色でも、確かに見え方が変わっていました。
目の前にあるものだけを見るのではなく、その背景に何があるのかを知ろうとする。すると、見えてくるものや、相手への向き合い方も変わってくるのだと思います。
この国の過去を少し知った目で、次は、いまのカンボジアの現実を見に行きます。
次回は、現地のNGOで出会った、学校に通うことが難しい子どもたちについてお伝えします。